ruboty-template


rubotyにて、Docomoの対話APIを使ったBotを作成してみました。

基本的には、Templateが用意してあるので、それをHerokuにDeployすればいいです。Heroku用のDeploy Buttonも用意されているので楽です。

https://github.com/r7kamura/ruboty-template

https://devcenter.heroku.com/articles/heroku-button

基本的には、SlackでBotとなるユーザーを作成後に、Gatewayの設定を行った後、当該BotユーザーのキーをDeploy画面で指定してやればいいです。あとは、Herokuではお馴染みのことをやるだけなので、わかると思います。注意点としては、Dynoですね。ハマりました。一度動かして戻せば動きました。

作者の方がQiita(中の人でもあった気がする)を書いてるので、そっちのほうが分かりやすいです。

参考

http://qiita.com/r7kamura/items/8d1b98e28154de6030b9

これで、何かしら呼びかければ返事をしてくれるはずです。



hubot-script



hubot-scriptは以下の様な形でCoffeeScriptで書きます。

ちなみにハマったのは、Slack上でURLがプレビューされないことです。改行を入れなければなりませんでした。


module.exports = (robot) ->

大文字小文字問わずhelloとポストされれば反応する

robot.hear /hello/i, (msg) ->
img_url = 'image url'
message = 'world!'
msg.send '#{img_url}'


#{message}

module.exports = (robot) ->

@bot_name helloとすることで反応する

robot.respond /hello/i, (msg) ->
img_url = 'image url'
message = 'world!'
msg.send '#{img_url}'


#{message}




hubot-slack



最近、hubot-slackを使って色々なスクリプトを動かしていた気がします。


$ mkdir hello;cd hello
$ sudo yo hubot
$ ./bin/hubot


こんな感じで動かせるので、それをHerokuにDeployすれば、Requestに応じてくれる。ただし、今回は、Slackで使用するので、hubot-slackというモジュールをインストールして、Deployするんだけど、GitHubで共有開発することも想定に、GitHubにPushして、WerckerでDeployすることにしました。


$ npm i hubot-slack -S


通常は、この後にexternal-scripts.jsonにモジュールを追加しなければならないのですが、hubot-slackの場合は不要。

wercker.ymlは正直、なかなか書きづらかったです。自分が設定するbuild処理はいらないので、書かなかったら、その後、build:を書けと言われたので、適当にスクリプトでも書きます。


deploy:
steps:

- heroku-deploy:<br />    key: $HEROKU_KEY<br />    user: $HEROKU_USER<br />    app-name: $HEROKU_APP_NAME<br />



もちろんそれぞれの環境変数、API Keyとか入ってるのでPrivateに設定。

GitHubからWerckerでHerokuにDeploy後は、Repositoryを持ってきて、Herokuの環境変数を設定します。ちなみに、GitHubとHerokuのRepositoryは、別々に保存しておいたほうが楽です。

SlackHubotを追加。そこで、Tokenなどを取得して設定します。


$ heroku login
$ heroku config:add HUBOT_SLACK_TOKEN=xoxb-1234-5678-91011-00e4dd


あとは、Slack上から/invite bot_nameコマンドを実行すれば、作成したBotがJoinされます。

pingしてHeroku Appのスクリプトが動作するか見てみましょう。


@bot_name ping





小さいもの


小さい世界ってすごいですよね。顕微鏡とかで見られますが。

まるで別世界のようで、まだまだ知らないことたくさんあるんだなと。

この世界を構成する要素、つまり最も小さな要素について、人間は解明しているのでしょうか。調べていませんが、多分、まだまだなんじゃないかとそんな気がします。

もし、それがわかったら宇宙の謎とかも解明できそうなので。

でもどっちのほうが早いんでしょうか。遠くを見て発見するか、足元を見て発見するか。

私は足元の観察のほうが難しいような、そんな気がしています。

以上、全くとりとめのないはなしでした。


もうすぐお正月ですよ


もうすぐお正月です。あまり私はこういった特別な日っていうのは好きじゃなくて、なんでかというと、うーん、なんででしょう。

毎日やることがある程度決まってる人とかにはわかりそうな気がするのですが、休みっていうか、本当の休みみたいな日は存在してなくて、いつもと同じことをやるだけみたいな、そんな感覚なのですが、でも、特別な日における周りの人の雰囲気、街の雰囲気を眺めるのはすごく好きで。

ただ、それは自分の場所じゃないというか、そんなふうな事も少し感じていて、だからこそ、特別な日は好きだけど、好きじゃないということになるのかな。

そんなことをお正月を前にしてちょっと思ったのでした。おわり。


日課とか


いつものメニューというのは日々、変わり行きますので、今年も前年と比べて色々と変わってます。

まず、筋トレ中にものを考えなくなったので、より堕落しているというか、楽な方に変わってしまったものがあり、それが良くない。

筋トレ中やランニング中、意識的に記憶力や思考を呼び覚ます訓練を頭のなかで同時並行的に行う(筋トレ中は数も数えながら)のは、思っていたよりもきつくて、結構続いていたのだけど、ある日を境に全くやらなくなってしまいました。ダメ。

今日からもう一度やり始めないとです。


最近思ったことなど



  • 寝る前にものを食べない

    具体的には、寝る前の6時間以内は食べないようにするとなんか調子良い気がしてる。

  • 食べる前には野菜から

    なにか食事を摂るとき、絶対に野菜を食べたほうが良い気がした。

    人参とか食べやすい。

Twitterなど


Twitterには、「プロフィール欄の自己紹介 = その人の人間判断の基準」という定説があるらしいという話を聞いた。

面白そうだなと思って、自分のを確認してみた。

あとアイコン、ヘッダー画像、プロフィールなんかは似たような感じの人は似たような画像を使ってたり、文章だったりすることもあるようなそんな気がしたのでした。おわり。

Twitter、またなんかつぶやきたいなと思いつつ、なかなか行動に移せないでいる。日頃読んでいるだけなんだけど、やっぱり、継続的につぶやいてる人はすごいし、いつも面白いつぶやき感謝。


本質と非本質


以前、本質の話をした。具体的には、「やがて人に優しくできなくなるのはなぜなのか」という問いについて、「それは利益がないからだ」という答えだ。

しかし、本質的な話というのは、あくまで本質であり、非本質ではない。

物事を理解するには、本質のみではなく、非本質も理解しなければならない。

なぜなのかと問われると、本質は完全ではないからだ。本質の説明は、あくまでポイントの話であり、重要部分の抽出だ。

次に説明するのは、「利益がない」というのはどういうことかだ。

この「利益がない」というのは、正確には、「割にあわない」の意味である。

例えば、1日に24時間休むまもなく働かされたとしよう。そして、報酬として、「1円」を受け取ったとしよう。

この場合、多くの人は、こう思う。「割にあわない」と。

そして、人に優しくしても、それによってもたらされる利益が、自分の考えている結果と違っていて、そして、それが何度も繰り返して起こった場合、人はいつしか「優しくする」ことをやめてしまうだろう。

これは、自然なことだ。

ただし、最初から「やがて人に優しくできなくなるのは、割にあわないからである」と答えるのは、個人的には本質的な答えではないと考えている。

なぜなら、その答えは、非本質的部分を多く含んでいる表現だからだ。

私が述べる答えは、多くに、本質的な答えと非本質的部分を含んだより完成に近い答えがある。そして、最初に説明するのは、前者であり、順を追って後者を述べたりすることも稀ではあるが存在する。

現在、ネタ切れ気味なので、特に、前回書いた記事を補足する形で文章を形成している。

話を戻すと、割に合わないという価値観について少しだけ説明する。

割に合わないというのは、本質的には、心の問題だ。心の持ちようでいくらでも変容させられるものであると考えている。

例えば、上記の例で挙げた1円の報酬についても、今までお小遣いを貰ったこともない子供なら、そのコインは、とても喜ぶものかもしれない。

しかし、大人になるに連れ、それでは足りなくなってくる。より快適に暮らすため、より便利なものを手に入れるため、場合によっては生存のために、より大きな報酬が必要になってくるからだ。

これは、自然なことだ。良い悪いの問題ではない。

そして、この価値観が、「人に優しくするかどうか」についても影響を及ぼしている。私はそう考えている。

それが、「人に優しくしても、割に合わない事が多いので、人に優しくできなくなってくる」という答えに繋がっていく。

ただし、先程も述べたが、これは心の持ちようの問題でもある。

正義のヒーローは、確かに、大きな結果、報酬を得ていることが多い。そして、それを目指していて、すぐに結果が得られなかったり、得られたとしても、それが思っていたよりも小さかった場合、人々は、「割に合わない」と考えるだろう。

さて、あと一つだけ、以前の記事で最後に述べたことについて今一度、説明をしておこうと思う。

「思いと考え」の部分で、「脳内シュミレーションとそれに基づく予測は、私の個人的な考えとは少し遠い場所に位置する」という部分だ。

これは突然の文章なので、驚いた方もいるかもしれない。しかし、どんなことにも意味があり、おおよその意図があるのが通常だ。

この文章を書いた意図は、私の個人的な考えが全く別のところにあるということを示唆している。

私は、「人に優しくしても、別に損はない」という考え方をする。

そのため、「利益がない」と「損はない」というこの2つの価値観の違いには、大きな隔たりがある。

だからこそ、私はそもそも、この「利益がない」という考え方があまり理解できないでいる気がする。

したがって、これを私の考えとしてしまうことに、違和感があった。

私は、別に損はないんだから、優しくしてもいいんじゃないか、助けてあげられるなら助けてあげればいいじゃんってそう思っている。

しかし、人によっては、あたかもそれが損することのように捉えている人もいるわけで、そういうのは見ていて分かる。

ただ、「人に優しくする」のが正解かというと、それは違う。

人に優しくすることで疲れてしまい、まるで損しているように感じる人がそれをしても不幸にしかならないと思う。だからこそ、私の「別に損はない」という考えや価値観をそのまま適用しても意味が無い。

人には適正というものがあり、「人に優しくする」ことがその人にとっての正解とは必ずしも限らないのだ。

これを生まれ持った性質と呼ぶ。

したがって、これについて私は思うところがあまりない。つまり、「別に、そんな無理して人に優しくする必要はないんじゃない」って、そう思うのだ。


神社などでの願い事


神社、願い事は言わないほうがいいのか、言ったほうがいいのか。今回はこれについて考えてみたいと思います。

願い事は言ったらかなわないとかなんとか。そういうのはたまに見かけます。

結論を言うと、私はどっちでもいいと思います。

要は、願いを他人に話したかどうかに関係なく、それを叶える人は少ないという事実があるだけなんじゃないかなと。

願いを叶えた人の中に、願いや目標は他人に話せという人やそういうのは他人に言ってはダメだという人がいます。

私の場合は、言いたければ言えばいいし、言いたくなければ言わなくて良いと考えますけど、それを言ったから願いがかなわなかったとか、願いがかなったというのは、あまり関係ない気がします。

たまたまなんですよ。偶然なんです。

その願いの行方は、誰にもわからない。自分次第でもあり、他人次第でもあり。

なので、私の場合は、この点については、あまり気にしないほうがいいのではと思っています。

が、実際はどうなんでしょうね。

わからないからこそ、いろいろと言われているんでしょうけれど、その分からない原因の一つが「願い事は言わない方がいい」と考えている人が一定数いることです。つまり、それが叶ったのかどうか誰もわからない。その点で検証不可能であり、わからないということになるんじゃないかなと。

ただ、一つ言えることとしては、願い事は行動しないと叶わないものが多いんじゃないかということです。

したがって、その行動と神社は関係ないし、願い事を言ったか、言わなかったかっていうのも関係なさそう。

もちろん、そういうのを信じている人を否定する気は全然ないけれど、でも、信じる対象は本当にそっちでいいのかなってのはちょっと思ってたりもする。まあ、一つの視点として、そういう考えもあるのだなあくらいに思っていただければと思います。おわり。


善行のたった一つの報酬


厳密には、善行に対しての報酬は基本、何もありません。私はそう思います。

良いことをしたからと言って良いことがあるとは限らないし、悪いことをしたからと言って悪い目に合うのかというと、そうでもありません。

悪いことをして利益や報酬を得ている人なんてたくさんいますし、それが社会的、人間的な成功につながっている人もたくさんいるでしょう。

したがって、いいことをすれば、いいことが必ずあるので、みんないいことをしましょうという考えは間違いだと思います。

それは単に自分たちの都合だと思います。

でも世の中には頑なにこういうことを信じている人もいるんですよね。それを強制しようとしたり、広めようとしたり。なんでかというと、それは自分たちの利益になるからだと思われます。自分ではやらないのに、他人にはそういうことを言うんですよね。確か、前の都知事の人もそんな感じの人だった記憶があります(国歌強制のあたり)。

それ自体の行いに関しては別に否定しませんが、私はあくまでそれは自分で決めることだと考えています。いいことをするかどうかは、あくまでデメリットというかその危険性を認識した上で自分が決めることでしょう。

いいことをするかしないかというのは、自分で決めることです。

ここで、自分で決めるというのはどういうことでしょう。

それは、「いいことをしても自分の利益にならないかもしれない」ということを自覚していることだろうと思います。他にも色々ありますが大前提として。

「いいことをすれば、いいことが必ずあるので、いいことをする」というのは、それは単なるプログラムです。単にプログラムに従っただけであって、自分の考えではありません。

そして、これがダメなところは、そのプログラム自体が完全に間違いだからです。

つまり、相手に間違ったプログラムを記憶させ、信じさせ、誘導している時点で、それは非常によろしくないことだと思います。

基本的に、善行というのは、自分の生存を脅かしたり、もしくは生存に不利になったり、または、その生存が危うくさせたりすることがあります。

そのような危険性を認識させずに、いいことをしたらいいことがあるのでやりましょうというのは、野生、もしくは生物本来のプログラムから見ると死ねと言ってるようなもので、そういった教えがあること自体、本当によろしくないなと思っています。

それは危険な行為であり、死ぬかも知れず、不利益を受けるかもしれないが、それでもやるかやらないかは自分で決めることだと思います。

宗教的な考えのうち、私が嫌いなところ、その1でした。おわり。


人に優しく



人に優しく


行為と結果


「正義のヒーローに憧れていても、やがて人にやさしくできなくなる、なぜなんだ」っていう問が有名なラノベであるらしい。したがって、なんとなしに、暇つぶしに、答えを出してみます。

まあ、問い自体が個別的問題、個人的問題であり、それぞれの環境や状況によって違ってくるのだけど、最も一般的な答えは、「利益がないから」になるでしょう。

例えば、「正義のヒーローに憧れる」という行為は一体何なのだろうと考えてみてください。

...疑ってはいけません。疑うのは最後だけで十分です。と、余談を話しつつ。

さて、「正義のヒーローに憧れる」という行為、これは、「主人公が最終的にハッピーエンドを手にする」という部分が物事を捉える上での本質的重要部分になります。

例えばですが、人を優しくしたヒーローが、逆にひどい目にあい、ボロボロになり、人々に誤解され、蔑まれ、ひどい扱け、ボロクズみたいに惨めな最後に終わり、バッドエンドを迎える物語なら、あなたは、そんなヒーローに憧れを持っただろうかと考えてみてください。

私の脳内シュミレーションの結果(簡単にいえば単なる妄想)では、「それでもヒーローに憧れを持つような人は少ない」と出ています。

あれれ、おかしいなー。ヒーローに憧れを持ったことがある人って、決して少なくないはずなのに、結果やエンドが違うだけで、こうも憧れる人の数に差がでるのは、おかしいなー。

と、ギャグはここまでにして、正確には何もおかしいことなどありませんよね。

つまり、人に優しくした結果、それがハッピーエンドにつながるならば、人々はヒーローに憧れやすいということなだけです。

ちなみに、私はヒーローや魔法少女に憧れたことは、全く無かった人なので、まあ、これについても色んなタイプがいるぽいですが。

そして、「子供の頃、ヒーローに憧れを持たなかった奴は碌なやつじゃない」と考えるのもできればやめて欲しい。いや、自分がどうとか関係なくて。

ヒーローに憧れを抱いてたタイプの人は、「自分と同じ考えを持たなかった奴はダメな奴」って思考する人がとても多い気がするので、「どんどん人に優しくできなくなってくる」という認識は正しい気がします。そして、これをなぜなんだって言われても、それは生まれ持った性質によるものとしか言えない気がする。まあ、個人的な印象の話はここまでにして、次です。

話が逸れてしまいましたが、行為と結果の話でした。

ヒーローものでは、ある行為と最終的な結果が大きく結びついていることが多く、それを含めて、人は無意識のうちに、「ヒーローみたいに人に優しくすれば、最後にはきっと幸せになれる」とそう考えてしまうのだと思います。

そして、これは人間として当たり前のことですし、だからこそ、予測が立てやすい感情的、思考的傾向の一つです。

つまり、行為だけでなく、結果という要素も、人々の判断材料には、非常に重要なファクターになってるわけですね。それを認識していなくても、その変数は依然としてそこに存在している。そういうイメージ。

いや、むしろ多くの一般的な人々にとっては、結果のほうが重要ファクターなのではないかなと思います。その行為だけを純粋に評価されることは少ない。ヒーローだって、もし結果が伴わなければ、かっこ良くもなければ、あこがれの対象でもないのです。普通は。

例えば、「悪いことをすれば、ハッピーエンドが待っている」という怪盗ものの話だった場合、逆に怪盗に憧れたりする子もいるんじゃないかなあ。まあ、悪いことの度合いや描かれ方にもよりますが。

次に、現実問題を考えてみましょう。

現実問題、人に優しくしたら、ハッピーエンドで終わるでしょうか。

ハッピーエンドで終わることはあんまり無いですよね。それが目に見えた形ですぐさま自分の利益に結びつくことも少ないですし。

むしろ、人に優しくしても、良いことなんて一つもないし、裏切られ、自分が傷つくだけって考えている人も多いのではないでしょうか。

そして、歳を重ねるごとにそういうのが分かってきて、だからこそ、人々は、人に優しくすることをやめてしまうし、できないんじゃないかなって。

だから「正義のヒーローに憧れていても、やがて人にやさしくできなくなる、なぜなんだ」という問の答えは、優しくしても「利益がないから」、「利益がないことがわかってくるから」ということになります。そして、「そのヒーロー自体の行為も、その行為のみを純粋判断しての憧れではなかった。それは、ハッピーエンドという結果を含めた憧れだった」です。

私が言いたいのはこれだけ。

つまらない答え


なんか非常に長い文章になってしまいました。

答えや真実というものは、往々にして、最もつまらないものが正解な場合が多いです。

人々はそれを理解し、だからこそ私は、それについての答えを出せます。

良い悪いではなく、そこにあるものには理由があるという感じです。

例えば、結果を考慮に入れていた判断に落胆する人もいるでしょう。しかし、それは生存本能、可能性の上では正しい判断です。そして、その生存に役に立たないことを理解した段階で、それを捨てるのも、正しい判断であると思われます。

ここで、次の記事に繋がるようなことを少しでも書いておきましょう。

人は概ね、自分にとって正しい判断をする。そして、それは、思いの外つまらない判断であることが多いのです。そして、それは年をとるごとにより高度に発達していくのだろう、と。

そして、つまらない判断をしている自分を認識(無意識)し、時に、「むきー!!」ってなる人もいるのかもね、と。

思いと考え


補足として、これがあんたの私の考えなのか?と聞かれた場合の答えを述べておきます。

答えは、「んなもん、ない」です。

実は、脳内シュミレーションとそれに基づく予測は、私の個人的な考えとは少し遠い場所に位置するため、私の中ではそういう認識ではない事が多いです。

そもそも私はヒーローに憧れた口ではありませんので、その思いを汲んであげることは、残念ながらできない...というよりは、やりません。

思いは、考えと深く結びついているゆえに、私はこの件について、あまり思うことがありません。

感情的に今回出した答えを受け入れられませんか?

なら、そっちの方がよいかもしれません...。


天才の人間と日々なんとなく過ごしている人間のどちらが怖いのか


今回の話は天才の人間と日々なんとなく過ごしている人間のどちらが怖いのかという話っぽいです。

別に天才でなくとも、何かに特化した専門家でもいいんですが、確かに、常人よりも知識があり、より影響力の大きな仕事ができますので、その責任も重くなりがちです。

例えば、普通の人の一つの行動では世界は崩壊しませんが、天才の一つの行動で世界が崩壊することもあるかもしれないみたいないなイメージです(あくまでわかりやすいイメージ)。

ただ、本当に怖いのはどっちなんでしょう。

見方によっては、何も考えてないし、知識もない人達の行動が一番怖いということもあります。

まあ、それらの行動の多くは自発的なものではなく、天才的な人物の扇動によるものが多いと思われますが、一概にどちらが怖いかは難しい問題です。

答えとしては、天才が民衆をコントロールして、争いや闘争に利用しようとする時が一番怖いということになり、大抵の場合は両方怖い、もしくは両方が重なったときが一番怖いということになると思います。

以下はそのことに関連する一つの視点を述べているのだと思われます(多分)。おわり。

天才の欠点


本質的な話、私の感覚


あなたは、天才的な人間を目の当たりにした時、何を感じるだろうか。

私は、彼らについて、恐ろしくまともな人間だと感じることが多い。

巷で言われる彼らの欠点は、私にとってそれほど大きな欠点には当たらない。

それよりも、いわゆる凡人と呼ばれる人達のほうが、私には「まとも」に見えないことが多かった。

私にとって重要な判断指標、それは、自ら考え、自らの意志で行動する人間か否かである。

つまり、どれほど世間から外れた考えを持っていたとしても、それが自らの確固とした信念に基づき、考え、行動しているなら、それは、私にとって「まとも」な人間だ。

必ずとは言わないが、当該要素は、私の中でもっとも重要な判断要素なので、そう考える確率が高いと思われる。

ただし、私にとって、天才的な人間と凡人的な人間は、本質的には何も変わらない。それだけは付け加えておく。

どのような人間にも本質的な欠点などというものは存在しない。全てはその時点で完璧であり、完成されたものだ。その時点で、「ただ、そこに在るもの」にすぎない。それをどう評価しようと自由だが、これは大前提だ。

ただし、その時点で完成していようと、より良い完成を妨げない。

例えば、天才と呼ばれる一人の人間が居たとしよう。その人は生まれたばかりは完璧ではなく、天才ではなかったのだろうか。子供の頃、完成されていなかったのだろうか。天才と呼ばれるようになってから完璧になり、完成されたのだろうか。どの時点で欠点が生まれたのだろうか。

そう考えていくと、ある意味で最初から完成されていた。欠点などはない。

そこには、単に個性があり、それを多くが、または個人がどう評価するかという問題だ。

無意味な話、私の前提


ここで、天才には必ず大きな欠点があるなどと考える人もいるが、これは私の考えとは全く異なる。

世間から大きく外れることを欠点とするならば、確かに、その通り、「天才は欠点だ」だ。この場合、その定義自体に私の考えとの不一致を見ることになる。つまり、議論の大前提すら一致を見ないため、この場合の議論は無意味となるだろう。

具体的には、「天才は世間を外れたものである、世間を外れることは欠点である。したがって、天才は欠点だらけだ」という論理的帰結がある一方、私が考える「天才は世間を外れたものである、しかし、世間を外れることは必ずしも欠点とは結びつかない。したがって、天才と人間的欠点の直接的関係を私は認めない」という論理的帰結では、議論の前提となる部分が大きく異るため、この場合、相手との議論は成り立たないということだ。このことを前提に話を進めていきたい。

さて、少しややこしい話をしてしまったが、簡単な説明から入ることにする。

世間から外れることは、必ずしも欠点であらず、間違っているとは限らない。

これは、上記で述べた当然の前提として共有すべき価値観の一つでもある。

では、なぜ世間から外れることを悪だとみなさないのかを話したいが、これをひとことで言うと、「過去の世間で認められなかったものが、現代では認められている例が数多く存在し、それでいて世の中を良くしたものが数多くあるから」という理由からだ。具体例もあげたいが、無意味な話はできるだけ避けたいので、この点は以後も割愛することとする。

次に共有すべき価値観は、「天才は世間を外れたものである」という部分だ。

天才とは相対的比較によって成り立つ概念だからだ。

つまり、多いか少ないかという要素が非常に重要になる。

例えば、現在でいう天才的能力を持ったものが、未来において大多数を占めることになったとしよう。この場合、同じ能力を有しているにもかかわらず、時代によって天才と呼ばれるか、呼ばれないかが変わってくる。

したがって、どうしても、天才とは、世間一般から外れた存在を指すことになる。ちなみに、この点の価値観は、上記の例からみても一致を見ることになる。

つまり、ひとつ目の「天才は世間を外れたものである」という要素は、一致を見るが、二つ目の「世間から外れることは欠点だ」という要素が一致を見ないことになるので、この場合、議論の前提条件を満たさないこととなる。

そして、議論の前提条件を満たさないことになれば、やはり、この記事を読む意味はあまりないと考える。

個人的な話、私の道


一般的に、天才と呼ばれる人々は、その個性が注目されることが多い。

しかし、一般人であろうと、凡人であろうと、その個性を注目されると、それがあたかも、大きな欠点を備えていると認められるであろうことも多いと考えられる。そして、その欠点は、むしろ、今まで聞き及んだ天才の欠点を遥かに凌駕するものであることも多いだろうと思われる。

ここで、少し個人的な話をしてみたい。そう、私の欠点ないしは、欠陥の話だ。

私は、この世界を存在の世界とそう呼んでいる。簡単に言うと、それは繰り返しの世界だ。どんなことであろうと、それが繰り返される世界。それが存在の世界の本質だ。個々の永遠はないが、最も大きな永遠で構築されている世界...。

なぜそう考えるかはさておき、少しだけ今まで説明していなかったことを一つだけ説明したい。

例えば、繰り返される世界は、生まれ変わる世界と言い換えてもよく、「寝て、起きる」または「起きて、寝る」が繰り返される世界だ。いや、本来的にはあらゆる行為、あらゆる物事が繰り返されるので、寝起きのみが対象ではないが、分かりやすいので今回はこれを使う。

この寝起き概念は、新たに生まれ変わるまでの時間的幅を発想させるのにも役立つ概念だ。

通常は、外側に在るものほど、その時間は比較的長くなる。

私たちは、1日に何時間寝るだろうか。10時間、それが私の答えだ。では、新たに生まれ変わるまでは、どれだけの眠りが必要なのだろうか。そう考えていくと、新たに生まれ変わるまでの一般的な睡眠時間を推測するのは容易い。

もちろん、「人それぞれ」が正確な答えだ。3時間しか寝ない人もいれば、12時間寝る人もいる。だが、生まれ変わるために必要な期間は、通常の人が寝起きする時間幅よりも長くなるのが通常だろう。

なぜなら、それは外側にあるからだ。外側にあるものほど、時間幅も長くなる。したがって、その時間幅は、私達が考えているほど「すぐに」ではないことが分かると思う。

しかし、このような世界観を持っていると、私は、「すべてを無に帰すほうが良いのではないか?」、もしくは「すべてを無に帰す衝動」に対して、遥かに肯定的価値観を持っている節がある。

これはよく巷の物語でいわゆる悪役が持ちうる価値観であり、悪とされる価値観だったりする。

しかし、私は、この永遠に繰り返される世界で、「すべてを無にする衝動」という価値観が一概に悪いものだとは考えていない。

なぜなら、それは、安らかな眠りに相当する価値観だからだ。

あなたは、今持っているものすべてを一度リセットされ、新たに生まれ変わる。そこには何も持ち込めず、当然ながら、今まで集めたお金や地位、自らの考えや行い、そのすべてを持ってはいけない領域である。

ある童話に持たない少女の話があるらしい。彼女は最終的に唯一身に着けている服さえも他人にあげて、そして、最後には死を迎えるという話らしい。

私は、このお話を聞いた時、「彼女は偉大な人間だが、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ偉大な人間というそれだけだ」とそう思った。彼女が偉大であることの報酬は...残念ながら何もない。

彼女が人間として偉大な人物であり、偉大な行いをしたとして、例えば、それで彼女が救われるわけではない。具体的に言うと、それで新しい生まれが、より良い物になることとの関連性は全く無い。もしかしたら、さらなる悲惨が待っているかもしれない。

すべてがリセットされるということは、そういうことだ。

これを残酷だと捉えるなら、それはすこしばかり私の価値観とは異なることになる。

例えば、彼女は服を他人にあげていたみたいだが、その他人が彼女があげた服で生きながらえたとしよう。それは、人間としてとてもよい行いをしたということになる。しかし、一つの生物が生きながらえるということは、多くのモノ、生物を犠牲にしてきたということでもあったりする。

これが犠牲になる他の生物の立場なら、彼女の行いは最悪なものだっただろう。より醜悪な天敵を幾重にも助けているのだから、それは卑劣なものに映ったかもしれない。これについては、弱々しいエイリアンが、より醜悪なエイリアンを助けているところを想像して見ると分かりやすいのではないかと思うが、私は血なまぐさい映画が嫌いなので、そういう話はなしでいこうと思う。

さて、では、天からみると、物事はどう映るだろうか。

残念ながら、彼女は人間として偉大な行いをしたが、そのことで彼女を贔屓する理由は、残念ながらどこにもない...。

これが私の価値観だ。

では、この事実を認識して、この世の悲惨を、支配を、隷従と死を想像して、それが繰り返される世界であることを認識して、そして、あらゆる人間としての偉大な行いをリセットされる世界であることを認識して、「もう少し眠りたい」と願うことは果たして悪いことなのだろうか。

「もう少し眠りたい」というのは、例えば、この星を無にすれば、私たちは、「もう少し長く眠ること」ができるだろう。例えば、この宇宙を無にすれば、私たちは、「もっと長く眠ること」ができるだろう。

繰り返されるというのは、一度や二度というレベルではない。一兆を遥かに超えて続くであろう、生という苦痛と絶望や死の間に、少しばかりの休憩をしたいと考えることは、果たして悪いことなのだろうか。

ただし、いかに長く眠ろうと、私達はいずれ目覚めるだろう。この輪廻から離脱することはできないと私は考える。輪廻から離脱して、ではどこに行くのかの問題だからだ。一つの輪廻から外れても、その先にはやはり、輪廻が在るのであろう。だから、根本的な離脱はできない。

しかし、できるだけ長く眠りにつくことはでき、そのための方法の一つが、「すべてを無に帰す」という考えだと私は理解する。

したがって、これが悪いことかと言われると、私は、「うーん、どうだろう...良くもあるし、悪くもある」、そう答えるだろう。

多くの死をもたらす考えを否定しない時点で、私は、世間一般に見て、いわゆる「とてつもなく大きな欠点をもった人間」ということになると思われる。

これについて少しばかり認識の相違があり軽く考えている方もいるかもしれないので、すこしばかり言っておくと、例えばこれは、「この星に住むすべての生物に一瞬で死をもたらすボタンがあったら、私はそれを押すかもしれない」と言っている。例えばこれは、私がインタビューで本音を聞かれれば「自分は、すべての生命の死を願っている部分もあるんです」と言うことになる。

そして、私がこれを第三者の立場で聞いたとしたら、「こいつ、...とんでもなくクレイジー(危険)だ」とそう考えたに違いない。

しかし、私は、凡人であり、一般人だ。全くもって平凡で、何の取り柄もない普通の人間だ。

そして、普通の人間でも、この程度のことは誰でも思いつくし、考えてるんだろうなと、私は、そう考えている節がある。

つまるところ、欠点が大きければ大きいほど天才だということもなければ、天才は欠点が大きいということもないのだと思う。そこには関連性はあまり見当たらない。

それは、単に個性が注目されたために認識され、広まったものにすぎない。私はそう考えている。

ただし、注意として、私は、人類の可能性を信じる人間でもある。

例えば、人類が、「人間として生まれれば、高い確率で幸せな人生が遅れるような世界」を形作っていけるようなら、それによって、私がボタンを押す確率も低くなる。そして、私はそれが可能だとそう信じている。つまり、これは、人類の可能性を信じているということでもある。

ただし、現時点では、私がボタンを押す確率が高い社会でもあるように思う。

例えば、ISなどで話題になっている紛争地域、貧困地域の悲惨さは、皆様も聞き及んでいることだと思う。そして、実際に聞き及ぶよりも遥かに悲惨なものだとそう推測している。

これは他人事ではない。私の世界観では、あれは自分なのだ。これまでの、そして、未来の自分。自分になり得るものたちなのだ。

帰結的な話、私の答え


私にとって、天才的な人間と凡人的な人間は、本質的には何も変わらない。

ただ、個性が注目される人間がいて、さらに、希少な能力を持った数少ない人間がいるというに過ぎない。

巷で言われる彼らの欠点は、私にとってそれほど大きな欠点には当たらないと思うことも多い。

凡人であろうと、その個性が注目されると、それが大きな欠点に見えることも在る。

そして、その欠点の大小と天才であることとの関連は、私はあまりないと考えている。

ただ、世間から外れた考えを持つには、自ら考えなければならないことも多いと思う。その点で、私は、天才と呼ばれる人達がまともに見えることも多かったりする。

今回はそういう話だった。


1枚絵よりもそれを何かにつなげる工夫があるといいかもしれない


創作は、色々なものをできるかぎり繋げるようにしたほうが面白いものが出来上がるので、なるべく多くの要素を繋げる事ができた作品が、やはり評価されやすい気がする。

例えば、1枚絵を描くだけよりも、それと物語をつなげたほうが面白いし、物語を作るには、脚本ができなければならない。また、これは音楽にも言えることだけど、曲だけよりも、キャラクターをつなげたほうがより面白いものが出来上がる可能性が高い。

でもこれは難しいことでもある。なぜなら、これは、複数の専門を持つことに等しく、あらゆる分野に特化する必要があるからだ。

また、世の中を見ていると、多くの場合、一つのことに特化した人よりも、それらを繋げる仕事をしている人のほうが評価され、利益を得ているというイメージがある。

なので、どちらかをやるとしたら、一つのことに特化する創作よりも、繋げる創作をしたほうが良さそうに思う。

もちろん、複数の創作を行い、例えば、脚本、キャラクター、絵、曲などの創作を行い、それらをゲームやアプリ、漫画などの形にして繋げる創作を全部一人で行えるのが一番良いが、これはなかなかに難しいことのような気がする。

例えば、漫画家さんは、脚本と絵を組み合わせているため、2つのことができなければならず、それ故、基本的には、すごい人達だと思ってる。

そして、いくら絵が良くても脚本がダメなら評価されないし、反対に、いくら脚本が良くても、絵がダメなら評価されづらい。

この辺りを全部うまくやってる人達はほんとすごいと思う。


チャットツールを作ってみた




GitHub(Push) -> Wercker(Build, Deploy) -> Heroku(Web App) -> Slack(Bot, Notify)


使ったのは、以下の様なもの。


socks


socksプロトコルを使ってみた。


外的なきっかけ

ひらめきを得るためには、どうしても外的なきっかけや知識が必要になります。

以前の記事では、閃きは周りに漂う多くの光を繋げること、そして、一つの形を描くことに似ていると言いました。

そして、光を繋げるには、一定の知識が必要だと言いました。

こう言うと、「知識なんて必要ない」って考えられる方もいるかもしれませんので、その補足になります。

一般人が納得する形で答えから述べるなら、「何の知識も持たない赤ん坊は、何かをひらめくことがあるだろうか?」ということです。

これについては、ニュートンの話が参考になります。「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」というやつですね。

これが作り話にせよなんにせよ、閃きについての重要な一つの視点を示してくれていると思います。

ここで示されている視点は、「日常的な物事をきっかけに、これまで認識されていなかった自然界のルールを思いついた」ということ自体が重要なわけではありません。

どのような物事にも、そのまま受け取るだけでは意味が薄いです。その裏側にあるものを認識することが重要になってきます。

なぜなら、そのまま受け取るだけのことは誰でも出来るけど、その裏側を想像する人は少ないからです。

さて、多くの人は、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見ても万有引力を思いつきませんでした。林檎の木から林檎が落ちるのを見たのはニュートンだけではないのです。リンゴ農家の人達はしょっちゅう見ている光景かもしれません。

では、なぜニュートンだけが思いついたのでしょう。

その一つの要素が、ニュートンが持っている知識ではないかと考えられます。

したがって、ニュートンも一定の知識も持たなければ、思いつかなかったことかもしれません。

もう一度問いますが、何の知識も持たない赤ん坊は、何かをひらめくことがあるでしょうか?

ひらめく人間は、誰しも、一定の知識を持った人達です。その知識が直接的であれ、間接的であれ、きっかけであれ、光を繋げるためには、どうしてもそれが必要になるだろうと私は考えています。

ただし、知識があれば誰でもひらめくというわけではありません。それは第一条件に過ぎません。また、光をつなげたからと言って、それが世間的に価値がある閃きかどうかはその時点では分かりません。

世間的に価値がある閃きかどうかは、それが今までにない形を形成し、かつ、人が認識でき共有できる形でないと、世間的価値がある閃きとは認められないでしょう。

閃きとは、周りにある光をつなげ、一つの形を描くことに似ています...。

そんな感じのことを思ったのでした。
test投稿その3

gitlab

GitLabと言うものを使い始めてみました。test投稿その2

Docker-Post

今までOS環境でまとめてなかったシステムをDockerでまとめてみました。test投稿その1

最近のDockerを用いた開発スタイル


最近、開発に依存が多くなってきたからなのか、Goなどで手軽にバイナリを配布しやすくなってきたからなのか、CIでのテストのためかわからないけれど、OSセットに考えることが増えてきた気がする。そして、Docker-Alpineは定番として定着しつつある気がする。それにしてもとにかく速い。OSセットで構築するにも関わらず色んな意味で速い。


FROM alpine:latest

RUN apk add --no-cache --update ca-certificates

COPY bin/app /app

ENTRYPOINT ["/app"]


はてなのキーバインドなど


例えば、Googleでは、Vimのキーバインドが有効であるように、はてなでもVimのキーバインドは有効です。中の人にVimmer多いのかも。

次に、Googleが吐くJSONとはてなが吐くJSONは、基本的に、はてなのJSONのほうがシンプルで扱いやすかったです。

また、日本で注目されてるニュースを検索するのも、Googleよりも、はてなのほうが使える感じでした。

具体的には、ユーザーコメントを取得する際、一応、全部のURLに対して取得するんだけど、そこで一番情報量が多いものをwc -cls -lなどから判断し、sort -nした後、tail -nで一番情報量が多いのを選択するんだけど、Hatena APIは、jsonlite/?でなはなく、json/?を使うことで関連ニュースも取得してくれるので、使いやすさがある感じがした。


消えていく記事がもったいない(新)



消えていく記事がもったいない(新)


長文で書いた記事ほど消してしまう傾向にあるので、もったいないなと思いつつ、良かったかなとも思ってるので微妙な気持ちです。

このブログは特に、過去記事を自動参照して発想を得る仕組みで動いているのだけど、自分が書いた過去記事がそもそも意味不明というか、なにこれという感じのものが多くて、読むのが相当苦痛なんですけど(笑)

日ごろ読まれている人の気持ちを察すると、胸が痛い...。すいません。

少しは読む人の気持ちになってみろっての、私は割と腹立たしいことを平気で書いていますよね(怒)

ということで、最近はゲームやアニメの感想に逃げてしまいがちになってる気がします。

コメントシステム


1年前のこの時期にMiddlemanの方のブログでコメント欄を付けたことがあったらしい。

しかし、今どうなってるんだろう...。コメントは一切来ないので今では外していた気がする。

Tralia(たぶん)というGitHubリポジトリへのコメントを参照するシステムなんだけど、このエコシステムは、すごく便利というか気に入ってた。

例えば、WebサーバーにGitHubを使わなくとも記事のURLとリポジトリにあるファイル名を一致させることでリンクが貼られて、コメントを管理できるシステムで、記事をアップするたびに、そこに記事アドレスと一致するファイルを作成し、リポジトリにPushすれば有効になる仕組みで、これを使ってた気がします。

今でも他のサイトには使ってることもあるのですが、手順が割りと面倒で全部自分で設定しないといけないので(管理はしやすい)、メイン以外のサブサイトでは使わないことにしたのだったかな。


消えていく記事がもったいない(旧)


長文で書いた記事ほど消してしまう傾向にあるので、もったいないなと思いつつ、良かったかなとも思ってるので微妙。

ブログの自動ポストなど


現在私が毎日更新しているブログなどをまとめてみます。

すべて自動更新ですが、仕組みはバラバラです。

  • https://mba-hack.blogspot.jp/

    上記はこのブログですね。これもちょっとした仕組みで動いていて、文章とかも簡単に考えられるようになっています。1年前の過去記事から発想を得ているからです。ただ、時間がない場合は過去記事のままポストされることもあります。タイトルが単なるタグ相当(英語)だった場合は、編集されてないですね(忘れてたという意味で)。

    具体的には、Blogger API v3, gulpを使用して自分で作ったCLIクライアントアプリを運用していて、1週間分くらいをpecoなどで絞り込みながら編集します。編集後は自動で記事コンテンツを管理するGitリポジトリにアップされ、クライアントはそれを参照することによって自動で記事をビルド・デプロイする仕組み(CI + Cron Jobのようなで)。

  • https://syui.github.io/middleman/

    このブログは個人的な話が多めです。大体はアニメとか漫画の話です。とてつもなく面白くないので注意しなければなりません。適当に思ったことを書いてます。これは、メモプラグインを自分で作成し、そこから参照されているからです。開くとメモ、閉じるとPushします。メモ自体、あまり読み返さないし、修正しないので、誤字脱字などが多発していて、先にも述べたように内容は思ったことをすごく適当に並べただけのものが多いです。

    できる限り個人的な考えを載せないように頑張ってまして(読んでる人も不快だろうと思うんで)、アニメ感想でごまかしながらやってるという感じですね。そういったジャンルで書くほうが不快感少なさそう。

    こちらは、CIにWerckerを使っていて、更にMiddlemanでビルドされてるので、時間制限によって稀に止まります。こうなると、手動で再デプロイしなければならないのが辛いです。Wercker APIを使えば失敗したときに再デプロイすこともできそうだけど、そこまでは仕組みを作れていません。

  • https://syui.gitlab.io/blog/

    こちらはゲームの話が多いかもしれませんが、技術的な内容もこちらにメモすることにしていて、たまに技術関連の話題も出てきます。

    GitLab CIで動いてますが、GitLabって結構不安定なので、安定してほしい...。

  • https://anicat.gitlab.io/

    こちらは海外の反応(アニメ)のRSSなどをまとめたサイトで、タイトルに合わせて情報を蓄積させ、マッチしないものや一時的なニュースに関しての情報は捨てられる仕組みで運用しています。1日数回、自動で更新されます。割りと放置気味。

  • https://anicat.gitlab.io/vocaloid/

    私自身がボカロ曲をニコニコではなくYouTubeでウォッチすることにしたので、YouTube APIを使ったついでに作ったサイト。GitLab CIを使って自動更新されています。

    毎日更新されていて、簡素なAPIも用意してます。こんな感じで新しい曲を取得できるようになっています。自分が利用している限り、このような仕組みは廃棄されないと思いますが、自分が利用しなくなれば無くなっていくかもしれません(サイト含め)。

    $ curl -sL anicat.gitlab.io/vocaloid/url.json

  • https://anicat.gitlab.io/mal/

    こちらはMAL(MyAnimeList)のレビューを翻訳したサイトで、更新などがあると自動で翻訳と更新を行います。ただ、数が数なので、ビルドも重く、したがって、毎日更新されるわけでもなく、そのへんは調整中です。

    現在、本家のAPIがあまりに貧弱なことから自分で作ったAPIから情報を取ってきて更新されています。ただ、こういった情報はレビュー文章を含めているので非公開。

    本来ならAPIを公開して、翻訳修正作業を手伝ってもらえたら嬉しい気がしますが、そのへんは、現在、自分でCLIクライアントを作って楽に作業できるようにしました(したけど全く進んでないないという)。

    以上、そこそこな頻度で更新されている自分が運用してるブログの話でした。

    気になる方は適当に覗いてみてください。多分、さほど面白いものはないと思いますが...。

技術書の読み方がわからない人への技術書の読み方


技術書って難しいですよね。

ただ、ある方法を知っていればそれほど難しくありません。

その一つは、手を動かしてから、実力をつけてから読むということです。

技術書には「これ、何も知らずに読んでもわけわからないだろうな」というものがたくさんあります。というか、ほぼこの種類です。

したがって、何もない状態からいきなり難解な技術書を読んでも、基本的には無意味だと思います。

無意味というのは、時間の無駄ということです。

もちろん、知るために読んでいる、技術力をつけるために読んでいるのに、時間の無駄とはどういうことかと怒られてしまうかもしれません。

つまり、そこには「何をやるにしても最初はわけがわからないので、まずは本を読んでから始める」という思想があるのかもしれません。

しかし、技術書に関しては、特に高度なものに関しては、「確認のために読む」、「嗜好品として読む」という感じになることが多い気がしていますし、そういう類のものが多い気がしています。知識量で言えば、とてもじゃないけれど、自分で調べて補完しなければ役に立たない内容が多いですし、それに前提知識を必要とする物が多いです。それらが全て本で説明されているわけではなく、多くは省略されていたりします。

したがって、技術書の読み方がわからない人へのアドバイスとしては「本を読んでもわけがわからなくて当たり前」となります。アドバイスと言うかフォローとして。

では、技術書の読み方がわからない人への技術書の読み方はどうすればいいのかについて自分なりに説明したいと思います。

これは人それぞれのやり方やきっかけがあると思いますが、まずは手を動かしてから面白くなってきたら読むようにしたらいいと思います。

ここで、入門書(ほんとうの意味での)はおすすめしません。技術書に関しては入門書は不要です。なぜなら、調べれば書いてあるようなことばかりをまとめてあるだけで、全く意味をなさないものが多いからです。また、害も大きい気がしています。一言で言えばすごく面白くないです。

技術を長く続けるためには、どうしても自分にとっての面白さを見つけられないと駄目だと思っていて、そうでないと長く続けることは難しく、長く続けられないなら、技術は進歩が早いので、あっという間に学んだことがほとんど無意味になってしまうことがあります。

そんな感じなので、面白くなってきたら読むという感じでいいと思います。

あと、技術書の中には、入門書と言いつつ上級者向けの本が結構たくさんあります。まあ、どちらにしても手を動かしていない限り、入門書は不要なのではないかということで(本当の意味での入門書は手を動かしていたとしても不要)。

でも出版社が中身のない入門書ばかり発行するのは良くないなと思っています。確かに、実際に意味のない入門書のほうが売れるんだから、それを発行するのは仕方ないことだとは思うけれど、できれば中身のある本を書いている人に還元してほしいなと思っているのだけど、世の中そうはなっていないのです。


鍛えるってこと


心や体を鍛えなければならないとよく言われます。そして、同時に、心を鍛えないと、とんでもない悲惨が待っていると脅されることもあると思います。

しかし、心が弱くても、体が弱くても、それはあなたが偉大な人間になることを妨げないと私は思います。

心が弱くても、体が弱くても、偉大な行いを成し遂げた人間や尊敬されている人は数えきれないほどいますよね。

ここで、偉大な人間というのはどんな人でしょう。

あえて定義するなら、みんなに認められている人ってことでしょうか。全員にではなく、多くの人にという意味で。

だとすれば、心や体を鍛える必要はないと私は考えます。

したがって、人は誰しも、いつでも、どこでも、だれにでも偉大な人間になる素質は既に備わっていると考えます。

要はやり方次第だと思います。

ただ、多くの人に認められている人気な人が、必ずしもあなたの想像通りとは限らないとも思います。

なので、その辺は難しいです。

実力が全くない人でも、心がねじ曲がっている人でもみんなから認められて、人気な人も多いです。

定義通りなら、この人は偉大な人間です。あなたがそうは思わなくても、他の人、大勢の人はそう考えているからです。

確かに、あなたの中にも真実はありますが、他の人の中にもそれはあります。

このように考えた場合、やはり、それは偉大な人と認識されるし、せざるを得ないでしょう。

したがって、心が弱くても、体が弱くても、人を騙すのがうまく、かつ目立ちたがり屋ならば、私は人気者で偉大ない人間になれると考えています。これは心と体を鍛えなければならないという話ではないです。

ただ、本当の偉大な人間、実力がある人間となると、どうでしょう。

これに関しても私は鍛えることが必須だとは思いませんが、しかし、みんなから認められているから偉大だとか、実力があるとかは判断しません。

私の周りを見ている限りでは、すごい人というのは、あまり注目されてないこともよくあるなあと感じます。

「なんでこの人、こんなすごいのに注目されてないんだろう?」と思うことがあります。

そんな感じなので、何者になるにしても、鍛えなければ駄目だということは、多分ないでしょう。そもそも本人は鍛えてるつもりなんてないことも多いだろうし。

おわり。


同じ意味


人には、予め生まれ持った特質や適正、性質と呼ばれるものがあります。

もしそれがなければ、あなたはこの世に存在していたでしょうか。

なんの特徴も持たずに存在する生命はいないと思います。

では、これらの特質、持って生まれた特質は変えられるのでしょうか。

私は、それは難しいんじゃないかと考えています。

なぜなら、それは、この世に存在するために必要だったものを取り除くということなので、必然的に難しくなってくると考えられるからです。

なんか簡単なようで難しい話でしたね。おわり。


同じ意味


人には、予め生まれ持った特質や適正、性質と呼ばれるものがあります。

もしそれがなければ、あなたはこの世に存在していたでしょうか。

なんの特徴も持たずに存在する生命はいないと思います。

では、これらの特質、持って生まれた特質は変えられるのでしょうか。

私は、それは難しいんじゃないかと考えています。

なぜなら、それは、この世に存在するために必要だったものを取り除くということなので、必然的に難しくなってくると考えられるからです。

なんか簡単なようで難しい話でしたね。おわり。


ひらめきによって得られるものでも効果は違う


効果というか、結果は全然違うなと思います。それは日常の事柄であったり、世紀の大発見であったり色々です。

あと、私は世紀の大発見が何気ないひらめきからだったという話は概ね信じています。

というか、ありそうな話だなと考えてるということです。

多くの大発見は自然の模倣であったり、自然の発見、自然の法則であったりします。したがって、ありふれたものから着想を得たというのは納得できる話だからです。それほど現実離れしているとも思いません。

ただ、その発見を証明したり、目に見えた形で、誰もが納得できるような形で再現するのは、それは非常に難しいことだと思います。

私は、多くの人はそれなりに日々色々再発見したり、新発見したりしているのではないかと思っていますが、それを説明したり、証明したりすることが苦手なんだと思っています。だから話題にならないわけですね。

話題になるのは、概ね、正規の手続きを経てそれを証明した時だけであって、発見よりも、ひらめきよりも、アイディアよりも、それが一番難しいのかもしれません。

なんとなくそんなことを考えてしまいました。以上。


ひらめきを得るためにはある程度の努力が必要そう


何かをひらめきやすい人って、年中そのことを考えてたりする人が多そうなので、結局、簡単にひらめきを得ようとすること自体難しいことなのかもしれません。

そんなことをふと思ったのでした。おわり。


illust


イラストを割りと真面目にやろうと思って、以下のサイトを購読し始めているんだけど、良いことがいっぱい書いてあった。

https://ichi-up.net/

特に手順面で参考になったのは、以下の記事の以下の文脈。

https://ichi-up.net/2015/089

目標とするクリエイターを決めて、真似ていくことが大切

今まで目をそらしてきたことだけど、練習あるのみって思った。で、その練習方法が真似るということ。自分もこの方法が一番だと思ってたけど、でも、やってなかった。

次に、どのような絵を目指すのかっていうのは、なかなか決められていなかったので、こういうのは、もう決めちゃったほうが良さそうだと思った。

ので、ぺこさんの絵が好きだったので、これを真似ようと、そして、それに近づけるように練習しようと思ったりした。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1511/16/news014.html

  • 塗り方で参考になりそうなページ : https://ichi-up.net/2015/080

    簡単に言うと、基本、アニメ塗りからやって、合う塗り方に派生していくってやり方がいいらしい。で、アニメ塗りっていうのは、ハイライト、影1、ベース配色で構成される塗り方。ぼかしとかグラデーションもまれに使う感じ。

  • 線画で参考になりそうなページ : https://ichi-up.net/2015/076

    線画というのは、細い線、太い線を分けて描くことを意識するらしい。私の場合、バッと書いて、消しゴムで消してくという感じでやってた。

  • 背景で参考になりそうなページ : https://ichi-up.net/2015/095

    背景は、よくわからないけど、写真をトレースすればいいんじゃないかって思ってる。トレースが面倒なら、プラグインで色を取り除いたりすると、それらしくできるんじゃないかって。でも通常はもっと簡易化されてる背景が絵と合うので、自力で書かないといけないのかなあ。消しゴムで消して簡易化とかできるかも。思いつきだけど。それでも全部トレースは無理で、例えば、ファンタジーの時とかは、トレースした上で、付け加えたり、想像を書き足したりしなければならないので、背景はつらそう。ゲームの街とか使えるのあるんじゃないかって思ってるけど、やっぱ初心者には難しいんだろうな。
    <br />

終物語


作中では、羽川さんの主張は常に正しいものだと描かれている。これは、扇さんの場合も同じであり、予め見せ方は決まっているようだった。

そんなことを思いました。


ハッカドール



前回の補足


ごちうさの話、正確にはチノの心の中というかチノの本質でした。

つまり、心の中という表現は間違いでした。

これだと日頃チノが思ってることや考えてることになってしまって、それは違いますからね。

ハッカドールみてみた


意味がわからなさすぎて、やばい